真田幸村は大坂の陣で徳川家康を切腹寸前にまで追い詰め、「日本一の兵(つわもの)」として他大名からも高く評価された人物です。そして江戸時代には、娯楽作品に勇猛果敢な活躍が描かれ、庶民の人気を集めました。
ところが、真田幸村が周りから「幸村」と呼ばれたことはなく、まして自ら名乗ったこともなかったと考えられています。では、なぜ幸村と呼ばれるようになったのでしょうか。
幸村の名が初めて登場したのは、1672年に刊行された軍記物の『難波戦記』で、そこには大坂に入って幸村と改名したとあります。しかし、その名が使われた形跡はなく、大坂入り後の書状でも実際には「信繁」を用いていました。
「幸」は、真田家が代々名前に受け継ぐ一字で、「村」は徳川家に仇なす妖刀村正の逸話から「幸村」という名が作られたのでしょう。難波戦記の物語が広く読まれるようになり幸村の名が定着したようです。
真田氏が藩主を務めた松代藩でも幸村という名で史書に記録が残っているほどなので、その認知度はかなり高かったようです。
かの黄門様こと徳川光圀も「幸村といふはあやまり也」と書いているとか。
徳川家に仇なすとされる「幸村」の名が庶民に親しまれているのは、黄門様としては複雑な心境だったのでしょう。