徳川家康が、死を覚悟した戦いの一つに武田信玄と戦った三方ヶ原の戦いがあります。
室町幕府15代将軍・足利義昭の織田信長討伐令に応じた武田信玄が、遠江国・三河国に大規模な侵攻を開始し、浜松城にも攻めてくると危惧した家康は籠城戦に備えていました。しかし、信玄は浜松城を素通りして、その先にある三方ヶ原台地に向かっていきました。
これを知った家康は激怒し、家臣らの反対を押し切り浜松城を飛び出していきます。
三方ヶ原から祝田の坂を下る武田軍を背後から襲えば勝機があると踏んでのことでしたが、三方ヶ原に着いた家康が見たものは、坂を下る手前で待ち構える武田の大軍でした。
罠にはまったことを悟った家康ですが、それでも引くことはせず突撃しました。しかし、武田軍の圧倒的な強さの前では為す術もなく撃破されてしまいます。
家康自身も討ち死に寸前まで追い詰められ、僅かな供回り衆のみで命からがら浜松城に逃げ帰りました。
そして、城に戻るや否や絵師を呼びつけ、今の自身の姿を描かせました。
後々も家康はその絵を見ては当時の短慮を悔い、教訓としました。
というのが、『徳川家康三方ヶ原戦役画像(しかみ像)』に伝わる話なのですが、実はこれウソのようです。
もともとは単なる『家康の肖像画』として、18世紀の終り頃に紀州徳川家から尾張徳川家に伝わりました。
紀伊藩主・徳川宗将の娘・従姫の道具の中にあったということから、嫁入り道具の一つであったと考えられています。
制作年代も一説によれば、江戸時代だとか。
いまに伝わる話も創作されたのはつい最近のことです。
明治以降に『長篠戦役図』とされ、1910年(明治43)年に開催された展覧会で「敗戦時の家康の肖像を初代当主・徳川義直が描かせた」と口伝が付与されました。
尾張徳川家から徳川美術館に移された後、1936年(昭和11)年に開催された展覧会で、美術館側が『三方ヶ原の戦い』での敗戦を「狩野探幽に描かせた」と発表し、更に1972年(昭和47)年頃には「家康自身が描かせた」との情報が加わりました。
開館したばかりの美術館を宣伝するキャッチコピーが、定説化してしまったようです。