安倍晴明幼少時の奇怪なクセ
稀代の陰陽師として有名な安倍晴明は、幼少のころから人と違うところがあったようです。
安倍晴明の父・安倍保名は、あるとき狩人に追われていた一匹の白狐を助けました。
それに恩義を感じた狐は美しい女性の姿に化け、保名のもとに現れました。
身の回りの世話をするうちにやがて妻となり、晴明が生まれます。
晴明は生まれて間もなくから親の手をわずらわせない赤子でした。
しかし、3歳になった頃から奇怪な行為が目に付くようになります。
家の中にいるクモやゲジゲジ、田畑にいるイナゴやムカデを見つけては好んで食べるようになったのです。
晴明のあまりの悪食ぶりに、父親は自分の前世の報いが息子を襲っているのだろうと嘆き悲しみました。
母親は、自分の狐の血がそうさせていると思い、このままでは自分が狐だとばれてしまうかもしれないと悩みました。
そして、父親のいない間に息子にいいました。
「お前がこのままクモやゲジゲジを食べ続けていたら、母はもう一緒に暮らしていくことができなくなってしまう。どうか食べるのをやめておくれ」
晴明は、クモやゲジゲジを噛む感触が楽しかったのですが、涙ながらに訴える母を見て、今日から食べるのはやめますと誓いました。
その言葉通りに悪食をやめた晴明ですが、母が何故一緒に暮らせなくなるのかずっと不思議に思っていました。
そして晴明が5歳のとき、母が狐の姿になるところを見てしまうのです。
我が子に本当の姿を見られた母は、
「恋しくば尋ねきてみよ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」
(恋しいならば尋ねてきなさい。和泉国の信太の森の悲しみにくれた葛の葉を)
という歌を残して姿を消してしまいました。
幼い晴明は父と共に森へ行き、母の姿を探しました。
必死に呼び続けると母は姿を現し、もう二度と戻ることはできないと告げました。
そして、代りにと晴明に霊力を授け、狐の姿に戻り森の奥へと消えていきました。
晴明が普通の人とは違うということを誇張する話です。
虫を食べたというのは、時代によっては飢えの為に普通に食していたようですが、平安時代はどうだったのでしょう。
米一粒も大切にする平将門
平安中期、関東一円を手にした平将門は自らを新皇と名乗り、東国の独立を朝廷に示唆しました。
この頃、武士たちは朝廷につくか将門につくか決めかねていました。
伊吹山の大ムカデ退治で有名な藤原秀郷もその一人でした。
ある日のこと、秀郷は将門の家を訪ねました。直接会ってどちらにつくか決めようと考えたのです。
秀郷が来たというので将門はとても喜び、櫛を入れ始めた髪を結う暇もなく、あわてて出迎えました。
「ぜひ共に食事を」
と勧められ、秀郷は食事の席につきます。
そのとき、将門は米を一粒こぼしてしまいました。
そしてそれをすかさず、拾って口に入れました。
それを見た秀郷は、乱れた髪で客を出迎え、落ちたものを平気で口にする将門を侮りました。
このような男に天下を治められるはずがないと考え、朝廷につくことに決めました。
しかし、将門のこの行動は全て人を想ってのことだったのです。
髪を結う間に客人を待たせては申し訳ない。
農民が作った大切な米を一粒たりとも粗末にするものではない。
外見にこだわる都の貴族になじんだ秀郷には、理解できないことだったのでしょう。
民のための国を作ろうとした将門は、朝敵とされ討たれた後も多くの人に慕われました。
そして、朝廷についた秀郷は、将門追討の恩賞は貰えましたが、歴史に多くの名は残りませんでした。
どちらが正しいかと問えることではないような気がします。
秀郷が考える、人に会うときは身なりを整え礼節をわきまえるというのも正しいことですし、将門の相手のことを思っての行動も間違っていません。
相手の立場や生活環境を思慮に入れることができれば、違った結果になっていたことでしょう。
「子子子子子子子子子子子子」を読んだ小野篁
小野篁は、平安前期に「天下に並ぶものなし」と評された詩人です。
書においても同様で、後世に書を習う者の手本になったほどだといいます。
そんな機知に富んだ篁の逸話です。
嵯峨天皇治世のころの話です。
内裏に「性無善」という落書きがありました。
漢文に通じていた嵯峨天皇は、それが「性(さが)無くば善し」つまり、「嵯峨天皇がいなければ良い」という意味だと悟りました。
そして、これを書けるのは同じく漢文に通じた小野篁しかいないだろうと考えました。
すぐに篁を呼び出し問いただしますが、まったくの濡れ衣だったため二人の押し問答となりました。
そこで一計を案じた嵯峨天皇は、「子子子子子子子子子子子子」という「子」の字を12個並べた文を見せ、これが読めたら許してやるといいました。
篁はそれを「子猫、猫の子、子獅子、獅子の子」(一説では「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」)と読みました。
嵯峨天皇は、篁の機知に感じ入り、約束通り彼を許したといいます。
漢文に詳しいというだけで犯人扱いされるというのも単純すぎるので、嵯峨天皇が単に篁と知恵比べをしたかっただけなのではと思ってしまう話です。
死後千年以上続く平将門の怨念
東京都千代田区大手町に「将門塚(しょうもんづか)」と呼ばれる旧跡があります。
通称「将門の首塚」と呼ばれるこの場所には、今も続く怨念の話があります。
940(天慶3)年、平将門は天慶の乱にて討ち死し、その首は遥か平安京まで運ばれました。
京都七条河原でさらし首にされた将門の首は、まるで生きているかのように目を見開き、歯ぎしりをしているようだったといいます。
そして3日目のこと、将門の首は自らの体を求めて東へと飛び立ったというのです。
武蔵の国まで飛んだところで力尽き、芝崎村(現在の東京都千代田区)に落ちました。
首が落ちた当時、大地は轟音とともに大きく揺れ、太陽は隠れて闇夜のようになったといいます。
恐れた村人たちは塚を築き、首を手厚く埋葬しました。
その後もたびたび祟りが起こるので、将門に『蓮阿弥陀仏』という法名を贈り、日輪寺にて供養したところ祟りは鎮まりました。
しかし、1923(大正12)年に関東大震災が起こり、首塚は倒壊しました。
あたり一帯は整地されることになり、塚を撤去して大蔵省の仮庁舎が建てられることになりました。
すると、祟りが起こり始めます。
工事関係者や大蔵省の職員、当時の大蔵大臣を含む14名もが2年の間に原因不明のまま亡くなるという事件が起こりました。
さらに多くのけが人が続出したため、将門の祟りだと噂されるようになりました。
大蔵省は仮庁舎を取り壊し、神田明神の宮司による盛大な将門鎮魂祭を執り行いました。
これにより祟りは収まりました。
しかし、1940(昭和15)年、将門没後千年目にあたる年のことです。
大蔵省本庁舎に雷が落ち、官庁街もろとも火災のために全焼しました。
太平洋戦争が始まって祭事が疎かになっていたことが原因と思われ、大蔵大臣が将門鎮魂祭を催したといいます。
また、第二次世界大戦後、GHQにより首塚周辺の区画整理が行われようとしたとき、またしても原因不明の事故が相次ぎました。
工事は中止され、塚は地元の人達により管理され、毎年慰霊祭が行われているということです。
死後千年以上経った今も続く怨念とは・・・
自らを『新皇』と名乗り朝廷に対し謀反を企てたといわれていますが、これは敵の策略だったという話もあります。
恋人にも裏切られて迎えた死の瞬間には、恨みしか残らなかったのでしょうか。
首塚の境内には蛙の置物がたくさん奉納されています。
これは、将門の首が飛んで帰ったことから『帰る(カエル)』にかけて、会社員が左遷先から戻れるように、行方不明者が無事帰るようにとの願いを込めて蛙を供えているからだそうです。
『勝てば官軍、負ければ賊軍』、勝者の立場で語られる歴史なので真実はわかりませんが、今もなお恐れられ、それでも慕われている庶民が語り継いできた姿が本当の将門なのかもしれません。