江戸時代の逸話集

畳を裏返して避難誘導路にした松平信綱

火事と喧嘩は江戸の華と言われるほど、江戸の町はよく火事に見舞われました。

特に、1657(明暦3)年に発生した明暦の大火では、多くの大名屋敷を含む市街地の大半が焼失し、江戸城の天守閣も焼け落ちました。

その明暦の大火の折、江戸城内は大変な騒ぎになっていました。

当時は防火設備というものがほとんど無く、火が付けばすぐに延焼してしまいます。

火に巻かれる前に逃げようと右往左往する人々で溢れかえっていました。

その中でも一番大変なのは大奥です。

城の奥に位置する大奥では表の様子が分からず、どうしていいか分からない女中たちが大騒ぎしていました。

それを見かねた老中の松平信綱は、多くの家臣に命じ、西の丸から大奥までの道筋の畳一畳を裏返しにさせました。

そして、大奥の女中たちに告げました。

「将軍家綱殿は西の丸に避難された。諸道具は捨て置き、裏返した畳を目印に退出されよ」

こうして、多くの女中たちはみな、無事に非難することができたということです。

『暴れん坊将軍』徳川吉宗の黒い噂

身分を隠して悪を暴く将軍の活躍が人気の定番時代劇『暴れん坊将軍』。

そこで主人公になっているのが八代将軍徳川吉宗ですが、実際もとても優秀な人物でした。

増税と倹約による幕府財政の安定化、新田開発による経済力の強化、市民の意見を聞くための目安箱の設置など、享保の改革と呼ばれる幕政改革を行いました。

これにより破綻しかけていた幕府の財政は健全化し、吉宗は中興の祖と呼ばれ、今でも稀代の名君として称えられています。

吉宗は、徳川御三家の紀州藩藩主を経て将軍に就任していますが、本来であれば将軍どころか藩主にもなれない立場の人物でした。

それがなぜ将軍になれたのか、正義の味方の『暴れん坊将軍』には似つかわしくない黒い噂がささやかれています。

1705(宝永2)年のこと、紀州藩藩主・徳川光貞の長男綱教が亡くなりました。

そしてその三か月後に光貞が、さらに一か月後には三男の頼職が急死。

次男は早くに亡くなっていたため、四男の吉宗が紀州藩の藩主を務めることになりました。

光貞は80歳という高齢で風邪をこじらせていたということから病死に間違いないようですが、長男と三男の突然の死は偶然でしょうか。

頼職は死の前に将軍家や大名に仕えた御典医を派遣するよう要請しています。

藩にもお抱えの医師がいるにもかかわらずわざわざ御典医を呼んだのは、藩の医師を信用していなかったからでしょう。

毒を入れられるのを恐れてのことか、単に腕を信用していなかったのか定かではありませんが・・・

そして、吉宗が将軍に就く過程にはまだ人の死が関わってきます。

1712(正徳2)年、六代将軍・徳川家宣が急死しました。

その子家継がわずか5歳にして七代将軍に就きますが、病弱だったため早くから次期将軍候補の話は取り沙汰されていました。

徳川御三家筆頭格の尾張藩四代目藩主・徳川吉通は次期将軍の有力候補といわれていました。

父・綱誠が48歳で急死したため、11歳という若さで藩主となりましたが、叔父の松平義行の補佐に支えられ林業の改革に挑むなど高い評価を得ていました。

その吉通が1713(正徳3)年、江戸の尾張藩邸で夕食後に急に苦しみだし、そのまま亡くなってしまいました。

享年25歳、早すぎる死です。

食事の直後に死んだこと、御典医がそばについていながら手当をされた形跡が無いことから吉通は毒殺されたという噂が流れました。

その後、吉通の息子・五郎太が藩主となりますが、五郎太も就任してわずか三か月で3歳という幼さで急死してしまいます。

かくして、1716(享保元)年、家継の死により吉宗が八代将軍に任命されました。

兄たちの死、将軍の急逝、将軍候補者の急死、すべて偶然だったのか吉宗の暗殺だったのか、または誰かの陰謀か、庶民に愛され続ける名君の陰でまことしやかに流れている黒い噂のお話でした。