聖徳太子は本当はいなかった!?
聖徳太子といえば、多くのお札にその肖像が印刷されていたことで誰でも知っている人物でしょう。
推古天皇を補佐する役目の『摂政』という地位を与えられ、役人の能力に応じて地位を決める『冠位十二階』や役人の心得を示した『十七条憲法』を制定し、革新的な政策を行いました。
古代の政治家でもっとも有名な聖徳太子ですが、最近になって「聖徳太子はいなかった」といわれています。
その理由として、『日本書紀』の『十七条憲法』に登場する『国司国造』という言葉は、もっと後の時代に使われたものだということです。
また、『古事記』に推古天皇の記述はあっても聖徳太子の記述はありません。
このようなことから、聖徳太子とは実在した用明天皇の第二皇子・厩戸皇子をモデルに後世になって作られた人物だと考えられるようになりました。
『唐本御影』と呼ばれる有名な聖徳太子の肖像画も、今では『聖徳太子と伝えられる像』とされています。
そもそも、この肖像画自体が誰を描いたものなのか、こちらも最近になって疑問視されています。
『唐本御影』が聖徳太子を描いたものだといわれるようになったのは、鎌倉時代の初期に法隆寺の僧侶が記した『聖徳太子伝私記』が基になっています。
この記録に「肖像画は聖徳太子だ」という記事が収められており、後世にもそう解釈されるようになりました。
しかし、1982年に肖像画につけられていた絹地に『川原寺』という文字が発見され、もともと川原寺にあった肖像画が法隆寺に移り、それが聖徳太子像と認識されるようになったと考えられました。
そして、川原寺は聖徳太子が亡くなった後、50年程経ってから創建された寺なので、そこに聖徳太子像が納められていたのはおかしいということになり、描かれているのは別人ではないかといわれるようになりました。
では誰の肖像画かというと、残念ながらまだ誰のものかは分かっていません。
お札に印刷されていて神聖なイメージのあった聖徳太子像が、実は誰かわからない人を描いたものだったというのは、実際にあのお札を使っていた世代には少々ショックではありますね。